東広島をふらっと歩いてみませんか。見方を少し変えるだけで、その地域の地理や歴史を物語るものが見えてきます。散策しながら地域を学ぶ「地歴ウォーク」の世界へようこそ。
執筆/広島大学大学院人間社会科学研究科教授 熊原 康博
![図1_地理院地図に示した散策ルートと観察地点](https://www.higashihiroshima-digital.com/wp-content/uploads/2024/07/240801chireki_kitani_map.jpg)
海岸沿いの景観を楽しむ
今回は、東広島市安芸津町木谷地区の海岸から丘陵を歩きます(図1)。木谷地区は安芸津町の東部にあり、竹原市と接しています。木谷地域センターから海岸沿いの道を南に進みましょう。
晴れた日には瀬戸内らしい青い海と島々の風景が広がります。湾内(地点①)では、カキ養殖の抑制棚をみることができます。抑制棚とは、カキの成長を遅らせるため、干潮時にカキを海水に浸からせないようにするものです。カキの成長を遅らせることで、収穫期間を長く延ばすことができます。
![地点① カキ養殖の抑制棚](https://www.higashihiroshima-digital.com/wp-content/uploads/2024/07/240801chireki_akitsupoint_01.jpg)
木谷地区赤崎はジャガイモ(馬鈴薯(ばれいしょ))の産地として有名で、JA芸南の馬鈴薯選別施設が見えてきます。選別施設やその周辺は、昭和46(1971)年まで煉瓦(れんが)工場がありました。山際(地点②)や小川の壁(地点③)には、煉瓦工場に関連すると思われる煉瓦積みが残っています。
![地点② 山際に残る煉瓦積み 煉瓦工場のものと見られる](https://www.higashihiroshima-digital.com/wp-content/uploads/2024/07/240801chireki_akitsupoint_02.jpg)
![地点③ 煉瓦積みの小川の壁 煉瓦工場のものと見られる](https://www.higashihiroshima-digital.com/wp-content/uploads/2024/07/240801chireki_akitsupoint_03.jpg)
煉瓦の原料である粘土は、丘陵周辺の土壌を利用していました。丘陵の地質は鉄分を多く含む流紋岩で、長年の風化により表面付近は赤い粘土質土壌となっています。
木谷地区の海岸沿いには、かつて粘土を原料とする煉瓦工場が数カ所にありました。煉瓦は鉄道や軍関連の施設などに使われ、近代日本の建築物に欠かせない資材でした。
本江(地点④)では、道路よりも北側の低地がかつての塩田(図2)で、塩田廃止後、畑や水田として使われていました。
![図2 明治期の二馬手周辺の地形図。2万分の1地形図「三津町」(明治31年測図)](https://www.higashihiroshima-digital.com/wp-content/uploads/2024/07/240801chireki_kitani_meiji_map-519x480.jpg)
一方、地点④から海をみると、小さな岩が海上からでています。この島は、ホボロ島です。明治期の地形図では、島にある標高点は22㍍と記載されており、高い島だったことがわかります。島が小さくなった理由の一つに、ダンゴムシに似たナナツバコツブムシという小さな生物が、島の岩に巣穴を多数掘ることにより、岩が侵食されたことが知られています。
塩田跡を探る
二馬手には、江戸時代の元禄3(1690)年から昭和5(1930)年まで続いた塩田跡が残っています(図3)。地点⑤には塩田の周囲に巡らされた溝(浜溝)、地点⑥には「樋(ひ)の輪」と呼ばれる、ドーナツ状の石積みの構造物を見ることできます。樋の輪は、塩田への海水の取り入れ口(樋門)を囲んでいて、波から樋門を守るために作られたものです。
![図3_二馬手周辺の空撮](https://www.higashihiroshima-digital.com/wp-content/uploads/2024/07/06238988da7a612eda41f6b3e441a146.jpg)
![地点⑤ 二馬手塩田の浜溝跡](https://www.higashihiroshima-digital.com/wp-content/uploads/2024/07/240801chireki_akitsupoint_05.jpg)
![地点⑥ 二馬手塩田の樋の輪 「樋の輪」の中には樋門が見える](https://www.higashihiroshima-digital.com/wp-content/uploads/2024/07/240801chireki_akitsupoint_07.jpg)
樋の輪をよくみると、海に面した南側は、反対側に比べて厚い石積みとなっていて、強い波にも耐えられるようにしていたようです。樋の輪は、令和5(2023)年7月に東広島市の史跡として指定されました。
樋の輪から道路(かつての堤防)の反対側に塩田がありました。この塩田は、干潟に堤防を巡らせて樋門をつくり、堤防内に粒のそろった細かい砂をまき、砂をまいた周囲に浜溝を掘ったものです。塩田の表面には、濃い塩水(鹹水(かんすい))の付着した砂をろ過する「沼井(ぬい)」と、塩田の下には、鹹水をためる施設と沼井とをつなぐ管が埋められていました。1962年撮影の空中写真(図4)をみると、規則正しく等間隔に置かれた沼井を見ることができます。二馬手の塩田は、「入浜式塩田」と呼ばれるものです。
![図4 昭和37(1962)年撮影の二馬手塩田の空中写真。国土地理院撮影。塩田に規則正しく配置された沼井の列が認められる](https://www.higashihiroshima-digital.com/wp-content/uploads/2024/07/bbb85e4dbd4d6432bd7a7bacae9887ab.jpg)
塩の作り方は、以下の通りです。
①樋門を開けて、海水を浜溝に流し、徐々に海水が塩田に行き渡る。②塩田の海水を日光と風で乾かし、塩を砂に付着させる。③塩のついた砂を沼井に集め、海水をかけて砂をこして、鹹水のみを管に流して1カ所にためる。④釜で鹹水を炊いて塩を取り出す。
地点⑦には塩田の守り神とされる塩竈神社があり、釜が少しでも長く使えるよう祈願していました。神社の鳥居や灯籠には、寄進者である元屋・角屋の文字が刻まれています。元屋は木谷地区の廻船業者の屋号、角屋は木谷地区の製塩業者あるいは三津地区の廻船業者の屋号と推定されています。
![地点⑦ 塩竈神社 左下は石灯籠の一部。寄進した元屋、角屋の字が刻まれる。天保9(1838)年寄進](https://www.higashihiroshima-digital.com/wp-content/uploads/2024/07/240801chireki_akitsupoint_09-569x480.jpg)
安芸津には、江戸時代から明治時代前半にかけて大きな船を持つ廻船業者がおり、大坂(大阪)~瀬戸内海~日本海を巡りながら荷物を運び、財をなしていました。元屋や角屋の船が入港した記録が輪島(石川県)などに残っています。
明治期の地形図を見ると、塩田の周りに煉瓦工場の地図記号を二つ見ることができます。工場の痕跡は現地には残っていませんが、当時は塩や煉瓦を船で運んでいたのでしょう。
今回の記事に関連する『東広島地歴ウォーク』の章は12、36、37です。塩田の歴史や廻船業者の動きを詳しく書いています。あわせてご覧ください。
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〈参考にしたwebサイトや文献〉
広島市水産振興センターホームページ「広島かきの養殖方法」
阪田泰正(1981) 『赤レンガ物語』
東広島市(2011) 『安芸津町史 通史編』
植野洋文(2023) 『改訂・増補版木谷の歴史』