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(SUN)

 第8回 「人一倍強い責任感『ワシにはきょうが大事なんじゃ』」 

  • 2023/08/02

炎のストッパー 津田恒美投手

 ひょうきんで人なつっこくて、チームメートの誰からも親しまれていた。

 こんな男に悲運が待ち受けていようとは。「炎のストッパー」津田恒美が32歳の若さでこの世を去ったのは1993年のことだった。

 81年に入団。一年目でいきなり11勝をマーク。球団初の新人王に輝いた。人なつっこい目に白い歯を見せていつもニコニコ笑っていた。会う人ごとに「元気ですかいな」と声をかける。だが、ひとたびマウンドに上がると豹変した。常に満身の力を込めて真剣勝負に挑む。

 新人王の翌年からは右肩痛や右手中指の血行障害と、厄介な故障と戦いながらのシーズンが続いた。86年に抑えに転向する。89年には40セーブポイントを挙げ最優秀救援投手のタイトルを取った。

 帽子のひさしの裏には「弱気は最大の敵」とマジックで書き込んでいた。性格的には実直だったが、責任感の強さは人一倍だった。抑えに失敗した夜のこと。取材を終えての帰り際。薄暗いベンチにポツンと人影が見えた。選手たちはとっくに家路についていた。ただ一人バスタオルで顔を覆ってうずくまっていたのが津田だった。チームを敗戦に追い込んだ責任と悔しさから立ち上がれなかった。「あしたがあるじゃないか」と元気づけると、涙ながらに「あしたじゃないんです。ワシにはきょうが大事なんじゃけ」とボソボソと呟いた。遠慮していた守衛さんも掛けつけ「津田さん、迎えのタクシーが長いこと待ってますよ」と知らせに来た。

 「ワシゃあ、こんなぶざまな打たれ方をしてタクシーなんかじゃ帰れんけ。歩いて帰るけ」。しばらくして津田は小さなバッグを担いで三篠町の合宿まで歩いて帰っていった。

 91年、右肩故障からマウンドに戻って来た津田から、かつての剛球は影を潜めていた。4月14日の巨人戦。死球に暴投を繰り返し、1死も取れずにベンチに消えた。

 その時すでに病魔は忍び寄っていた。「脳腫瘍」と判明。復帰へ向かって懸命のリハビリもむなしく、福岡市内の病院で息を引きとった。グラウンドの内外問わず、数々のエピソードを残し津田伝説はいつまでも球界の語り草になっている。


プレスネット2015年→2016年 年末年始号掲載

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