東広島にまつわる歴史を探り、現代へとつなぎたい。郷土史のスペシャリストがみなさんを、歴史の1ページへ案内いたします。
西条酒蔵通りの街は「酒都西條」と呼ばれた近代日本酒産業の街の名残りⅠ
酒蔵の誕生
今や東広島市随一の観光名所にもなっている西条の酒蔵通りの街並み。観光ガイドの話を聞いていると、やたらと江戸時代の話が出てきます。江戸時代から酒造りが盛んであったかのような話が、酒蔵通りの歴史だと思っている人も多いでしょう。
しかし、江戸時代は「四日市」と言う名の街道の宿駅として栄えた町で、酒造りが盛んになり始めるのは、明治23(1890)年に町制施行で「西條町」という名になって以後のこと。その2年後に、町で最初の造り酒屋(酒造専門店)が誕生するのです。
その後、27(94)年に鉄道が開通、30(97)年には停車場に貨物駅が完成。33(1900)年には駅と南の海辺の港町とを結ぶ馬車道が開通しました。これによって酒の搬送ルートが整い、街道に面して多くの家が2㌔に及び建ち並び、次々と酒造業を始める商店が生まれるのです。それは34(01)年以降の20世紀に代わってからのこと。それゆえユネスコの世界遺産に答申する日本イコモス国内委員会が、「日本の20世紀遺産20選」の一つに、 この西条酒蔵通りの街並みを選定したわけです。
四日市時代の酒造りとは?
ではなぜ、江戸時代の酒造りのことが大げさに語られるのか? それはこの町が、西国大名の参勤交代で宿営地として使われた宿場町でもあったからです。そうした殿様一行を泊めるにあたり、何百人もの供の侍のために、清酒を造っておく必要がありました。
清酒とは「清(す)み酒」から来た言葉で、良い米を白く白く搗(つ)いて造る酒で、当時は「百姓」と呼ばれる8割以上の庶民にとって、めったに口にできるような酒ではありません。
こんな田舎町では清酒造りが商売として成り立つはずもなく、それが成り立つのは、侍が多く住む城下町や水主(かこ)や商人たちが集まる港町などでした。とは言えその酒は、江戸という大消費地に船で送っていた摂津の伊丹や池田と、樽(たる)廻船の積み出し港の「灘」地域で造る清酒とは、比べものにならない質の低い酒でした。
清酒造りの先進地「上方(かみがた)」地域から船に積んで江戸へと下る酒は、波の荒い熊野灘や遠州灘を越える長時間の船揺れに耐えて、江戸に着いても樽の中で腐っていない質の高い酒です。それ以外の地域では、そこまでの質を必要としなかったのでしょう。上方地域から江戸に船便で運ばれる「下(くだ)り酒」に対し、それ以外の地域の酒を「くだらない酒」と呼んだくらいです。
下らない酒は遠くへの輸送に適さず、四日市のような港の無い山間部の宿場町では、殿様一行のための清酒を藩の御役として、 選ばれた町の商家が造っていただけです。ただしその始まりは、 長崎奉行が陸路で江戸と行き来をするようになった寛永10(1633)年に、 のちに四日市の本陣となる「御茶屋(おちゃや)」が造営されたころ。それは江戸時代の賀茂郡※(注1)内では、比較的早い時期であったからなのでしょう。
昭和の戦後高度経済成長期のころから、創業が古いほど酒造業者の格が上がるような風潮になったことで、全国の酒造業者が「江戸創業」をうたうようになりました。西条の街は、江戸時代から商家が建ち並ぶ宿駅の町であったのですから、創業が江戸時代であってもおかしくありません。
昭和の戦後という時代なら、許される見栄(みえ)であったのかもしれません。
※(注1)昔の賀茂郡には現在の竹原・安芸津・安浦の街が含まれる
「酒蔵の街」西条の本当の歴史
戦後の高度経済成長期は、戦時・戦中・戦後のヤミ酒時代と、長く絶えていた日本酒造りが再開し、過去最大の醸造石高になったころ。そのころとは違い、今はその25~20%もいかないような時代の日本酒産業。この景観を21世紀にも残すことができれば、世界遺産も夢ではない貴重な価値のある西条の酒造施設群。これは次世代に残していかねばならない市民共有の財産でもあります。
「広島杜氏(とうじ)の郷」安芸津、そして市域北部の「酒米の郷」、さらに「灘の宮水にも匹敵する」と言われた伏流水、世界に誇れる「吟醸酒を生んだ地」とその「歴史」。これまでそれらの話をおろそかにして、次世代に伝えていくことをしなかったツケが、今この景観を消し去ろうとしています。
歴史とは、英語で[History]と言います。一説では[His]+[Story]から来ているともいわれています。直訳するなら「彼らの物語」。次回は西条酒蔵通りの街の基になった、「酒都西条」と呼ばれた百年前の街を造った「彼らの物語」について、書き進めたいと思います。
東広島郷土史研究会
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