第100代首相に就任した岸田文雄氏は東広島市とゆかりが深いことをご存じだろうか。衆院議員を務めた岸田氏の父方の祖父にあたる正記氏は、東広島市志和町(旧広島県西志和村)の出身。岸田家の墓所は志和町別府にある。
正記氏は、西志和高等小(現西志和小)を卒業後、広島商業学校(現広島商高)に進み、京都帝国大(現京都大)法学部を卒業。1928年に衆院議員となり、戦前戦後を合わせて6期務めた。最後の当選は53年で、中選挙区時代の旧広島1区で自由党から出馬した。
中選挙区時代には、志和町から、谷川昇氏が旧広島2区で出馬。47年に衆院選に初当選を果たし、55年の衆院選で当選確実の報を聞いたその日に、脳出血で急逝した。
旧広島1区と2区の、区割りの隣接する境は広島市安芸区。選挙戦に入ると、志和町の人たちは境の安芸区船越辺りまで赴き、「2区は谷川、1区は岸田で」と双方の支援を呼び掛けていた、という。
その後、正記氏の後を文雄氏の父の文武氏、昇氏の後を長男の和穂氏がそれぞれ継いだ。文武氏は79年から5期連続で衆院議員を務めた。和穂氏は58年に初当選後、計12回の当選を果たした。
この間、志和町出身の広島市在住者で、広島の政財界で活躍する人たちを中心に志和人会を結成。選挙戦の際には、強い同郷意識で文武氏と和穂氏を支え続けた。志和人会は一昨年に解散するまで60年間活動し、文武氏の後を長男の文雄氏が継いだ後も、文雄氏の応援に奔走した、という。
墓所には、正記氏夫妻と文武氏夫妻の墓石が隣り合わせで並び、文雄氏は年に1回は訪れているという。もし正記氏と文武氏が生きていたら、文雄氏の首相就任にどんな言葉を掛けただろうか。
(日川)