巨人キラー 安仁屋宗八さん
現在地元の放送局で野球解説者として、ラジオのパーソナリティーとして活躍中の安仁屋宗八さん(71)を紹介する。
沖縄からのプロ第1号だった。沖縄高校(現・沖縄尚学)のエースとして、夏の甲子園で一躍脚光を浴びた。痩せてヒョロヒョロとした体つきは、とてもプロでやっていけるとは想像もできなかった。しかし、しなやかに伸びる右腕にリストの強さ。何よりも素晴らしかったのは天衣無縫の度胸の良さだった。高校卒業後は地元のノンプロ(社会人野球)琉球煙草にいた。都市対抗大会で大分鉄道管理局チームの補強選手として呼ばれる。この時プロから注目される。
東映(現日本ハム)とカープが獲得に動き、カープ入団の決め手となったのがパスポートだった。当時の沖縄は日本復帰前。本土の人間が沖縄へ行くには渡航ビザの取得が必要だった。幸いにもカープには日系2世で米国籍のフィーバー平山がいた。カープはいち速く沖縄へ向かわせ、入国を確約して戻って来た。
南国風のエキゾチックな風貌に端正なマスク。たちまち女性ファンを魅了した。1967年4月8日、後楽園球場での巨人との開幕第1戦。得意の内角シュートを武器に外角へ鋭く切れるスライダーを酷使。王、長嶋の〝ON砲〟をキリキリ舞いさせた。カープが8対1で完投勝利。この試合が安仁屋の〝巨人キラー〟としての輝かしい出発点となった。翌68年には23勝11敗、防御率2・01の自身最高記録となった。
強心臓の持ち主のエピソードの一つを。東京でのある夜の話だ。安仁屋は私を誘って新宿の居酒屋に入った。偶然にもそこには中日の主力打者がズラリ。首位打者の江藤慎一をはじめ5、6人の選手が酒を酌み交わしていた。「安仁屋じゃないか。まあ飲めよ」。カープの主力投手になっていたとはいえ、まだ入団5年目。大打者・江藤の野太い声にも、安仁屋は物おじすることなく、ビールを何本も飲んだ。気が付くと朝日が昇る時間になっていた。門限破り? 当時は規律も厳しくなく、そこをうまくくぐり抜けた。驚いたのはその日のナイター。巨人戦のマウンドに安仁屋が立っているではないか。記者席で絶句しながら「KO劇を目の当たりにしなければいいが…」と。ところが、終わってみれば完封勝利。また、この晩も声をかけられたが、さすがに断った。
安仁屋の対巨人通算成績は歴代8位タイの34勝38敗だった。75年に阪神に移籍。その年リリーフで「カムバック賞」を受賞した。
プレスネット2015年12月5日号掲載