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(THU)

 第7回 「テスト生から〝出雲神話〟を作り上げた男」

  • 2023/08/02

胴上げ投手 大野豊さん

 大野豊は軟式野球からテスト生でカープに入団した。常にケガと背中合わせの中で、数多くのタイトルを取り、胴上げ投手になり、最後は殿堂入りを果たす。まさにサクセスストーリーそのもの。

 1977年2月。場所は小雪の舞う呉の二河球場。たまたま私が訪れていた2軍のキャンプ地でのこと。ボストンバッグを一つを持ち、大野は紹介者に連れられてテスト生としてやって来た。キャッチャーの背後には当時の2軍監督野崎泰一が立っていた。たった一人、ガランとしたブルペンで、細身の左腕投手は大きく振りかぶって懸命に投げ続けた。荒れ球は右へ左へ高くそれたが、それでもボールは速かった。名も知れない軟式上がりの投手が、テストに受かるとは失礼だが思ってもいなかった。

 ところが1週間もしないうちに大野は、合格の通知をもらって練習に合流した。

 大野は島根の出雲商高を卒業後、出雲信用組合の行員として入社。そこで軟式野球部のエースとして各大会で優勝した。母子家庭で育ち、家庭を助けるために進学をあきらめた。真面目で実直な性格。野球選手としてメドが立つと、苦労をかけた母親を出雲から自分の元にすぐ呼び寄せた。デビュー戦は散々だった。1年目の9月4日の阪神戦。2―12と大敗の〝敗戦処理投手〟としてマウンドに上がったが5安打2四球と1死もとれずヤジを浴びて降板した。この時の防御率が135・00。「天文学的数字」と酷評された。プロの厳しさを身をもって知らされた。

 リリーフから先発になり、また抑えに戻りそれからまた先発へ。イヤな顔ひとつせずまっとうした。この間に肩、肘、指、腰と常に故障と戦いながら、時には鎮痛剤を服用しながら投げ続けた。98年の引退式の日。「我が選んだ野球人生に悔いなし」と結んだ。

 テスト生から沢村賞、防御率1位、殿堂入り。43歳まで現役を続け、引退後は広島の投手コーチを長年に渡って務めた。プロ野球人としてまさに〝出雲神話〟を作り上げた人物だ。


プレスネット2015年12月19日号掲載

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