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(SUN)

 第18回 「小さな大投手」の感謝の殿堂入り

  • 2023/08/09

長谷川 良平

 「コマちゃん、ありがとうね。あんたのおかげで表彰してもらうことになったよ」。低い声で感謝の気持ちが伝えられて来た。

 電話の主は「小さな大投手」といわれた、長谷川良平さん。思ってもいなかっ た殿堂入りの朗報が届いたという知らせだった。2001年1月のことである。

 その功績を考えれば、長谷川さんはとっくの昔に殿堂入りが決まっていても不思議ではなかった。

 記者は長年、広島を担当していて長谷川さんの存在が気になっていた。「この人をこのままにしていていいのだろうか」と、関係者を通して殿堂入りを働きかけた。

 長谷川さんは、球団創設の1950年に愛知の半田商工から広島に入団。1年目にいきなり15勝を挙げた。新興の広島は当時戦力に恵まれず、毎年のように最下位争い。資金難から何度となく球団の解散、合併がうわさされる状態が続いた。そんな中で長谷川投手は孤軍奮闘した。

 身長170cmに満たない小さな体で、長年弱小球団のエースとして投げ抜いた。1日2試合(ダブルヘッダー)に登板したことも。まさに「小さな大投手」がピッタリだった。

 最も得意な球は打者のふところを鋭くえぐるシュート。ピンチに立つと、このシュートで併殺に切り抜けた。アンダースローは、モーションを速くしたり遅くしたりして、相手打者のタイミングを狂わせる。抜群のコントロールも武器だったが、何よりも負けん 気が強かった。55年にはチーム成績58勝70敗2分(チーム順位4位)の中で、長谷川は一人で30勝(17敗)を挙げた。入団以来通算197勝をマーク。

 200勝まであと3勝と迫った63年に「現役生活に思い残すことはない。やるべきことはすべてやり遂げた」と引退。その後は投手コーチを経て65年シーズン途中に広島の監督に就任。

 当時駆け出しの記者だった私は、別な意味でずいぶん可愛がられた。広島の負け試合、監督の采配を敗因にあげる記事を書くと翌日に必ず呼び止められた。記者の書いた批判記事のそれこそ一字一句に対して反論された。若手記者など相手にしないという人も多かったが、負けん気の強さが表れていた。

 そんな長谷川さんの殿堂入りは、もちろん広島球団をはじめ元NHKの島村俊治アナウンサーや金田正一さん、川上哲治さんらの協力もあって実現した。

 心臓病を患っておられた長谷川さんは、それから5年後の06年7月29日に亡くなられた。享年76歳だった。


プレスネット2016年4月9日号掲載

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