日本球界初の大リーグ出身監督となったジョー・ルーツが審判とのトラブルで電撃退団した75年4月、その後任として突然、広島の指揮を任されたのが守備コーチだった、39歳の青年監督古葉竹識である。
5月初旬、正式に監督に就任するや、チームは快進撃。いきなり広島を球団創設26年目にして初の優勝に導き、日本列島に「赤ヘル旋風」を巻き起こした。攻撃陣は機動力野球に徹し、投手陣は先発・中継・抑えの役割分担を明確にし た。以降、古葉はキャンプではスパルタ練習(猛練習)に終始。11年間の長期政権を築いてリーグ優勝4回、日本一3回。広島に黄金時代をもたらした。この間投手では山根、池谷、大野、北別府、江夏、川口らを育て、野手では高橋慶、衣笠、三村、大下、山本浩、水谷らの球界を代表する選手を輩出した。
古葉の経歴は波瀾万丈だった。61年(昭和36年)に熊本の駅前で7人兄弟の6番目に生まれた。鋳物工場を経営する家庭は裕福だったが、小学校2年生のとき父親を病気で亡くす と、途端に貧乏のどん底に。6畳一間のトタン屋根からは雨が降り込み、天気の日は夜空の星を見て当時の古葉少年は勇気をもらったという。
熊本の名門、済々黌高から専大に進んだが、中途退学してノンプロ日鉄二瀬を経て広島に入団した。人生の甘さと厳しさをとことん味わった古葉は、監督になってチームワークをやかましく言い続けた。サインを求められると決まって「和」「耐えて勝つ」を好んで書いた。
ところで、番記者として 最も記憶に残っているのは、85年オフ。古葉の退団が決まった11月。次期監督には守備コーチの阿南準郎の昇格が決まっていた。
そこで記者クラブ(新聞・通信社、放送テレビ局)に呼びかけて、新旧監督にコーチ陣も含めた「1泊2日の歓送迎会」を提案。話はすぐまとまり、寄付もつのり、一人5000円会費で、場所は島根県内のゴルフ場。国鉄(現JR)から破格の安値で貸し切りバスをチャーター。古葉と阿南が一番前に肩を寄せ合って座り、あとは補 助イスにもビッシリ。狭い車中だったが、和気あいあいの珍道中。
夜の宴会。皆が即興で「古葉物語」を演じた。
アナウンサー、ディレクター、記者と入り乱れての演技は大爆笑。極め付けは、古葉監督が高橋慶彦(現オリックス・打撃コーチ)をベンチ裏に呼んで蹴りを入れる場面。古葉も阿南も抱腹絶倒。
いまでは考えられないような和やかでほほえましい仲間意識。この夜の宴会が終わる頃になってコーチを含めた報道陣も肩を組み合って恥じらいもなく泣いて笑った。首脳陣のこの結束の強さが、古葉カープ黄金時代の〝舞台裏〟でもあった。
プレスネット2016年4月16日号掲載