1987年にルーゲリックを抜いて達成した2131試合連続出場の世界記録が、この人の人生のすべてを物語る。
4度の骨折などを乗り越え、「鉄人」「国民栄誉賞」の称号を得た衣笠祥雄(68)である。
広島では山本浩二と並んで、球団初優勝の原動力となり数々の記録を作った。殿堂入りも果たした。王貞治(現ソフトバンク会長)さんに続いての国民栄誉賞者も〝ヤンチャ坊主〟が始まりだった。
衣笠自身は「自分では苦 難の野球人生を歩んだよ」と苦笑する。65年に京都の平安高(現竜谷平安)から「強肩強打」の捕手として、まさに鳴物入りで広島に入団。ところが18歳の少年は、いきなり失意のドン底に落とされる。一年目のキャンプで右肩痛に襲われたことが原因の始まりだった。契約金の一部を実家から送金してもらい、アメ車(フォード・ギャラクシー)を買い、チーム内で白い目を向けられるようになった。当時入団一年目で外国車を乗り回すような高卒新人は皆無。アメ車をスカイライン2000GTに 買い替えた2年目には、民家の壁に激突する事故を起こした。せっかくの免許を球団に5年間も没収された。若いころの衣笠は何事にも好奇心旺盛だった。
2年目の日南キャンプには、黒塗りの細長いトランクに入ったトランペットを持ち込んだ。宿舎(ホテル)の窓を開け星空に向かってブウーブウーと吹き始めたが、まるで音にならない。結局先輩連中から大目玉を食らって、やめてしまった。
キャッチャーとしてもうまくいかなかった。右肩を 痛めたことで、売りの強肩が発揮できず、すぐに捕手失格の烙印が押された。このころの衣笠は少し荒れ気味だった。失望感におそわれ、守っても打ってもバラバラ。生活態度を見かねた担当の木庭教スカウトが、合宿所の部屋に閉じ込めて、とことん説教。「お前から野球をとったら何も残らんぞ。もっと真剣に野球に向き合え」。
この衣笠に光を当てた人物が当時のコーチ・根本陸夫だった。根本は衣笠にファーストミットを持たせ、一塁手に転向させた。壊れた右肩からスムー ズに送球できるよう、根本はくる日もくる日もキャッチボールばかり練習させた。同時にバッティングもグングン上達していった。68年に根本は長谷川良平に代わって監督に就任。それ以来、根本と衣笠のマンツーマンでの練習はますます熱を帯びていった。衣笠が選手としても人間的にも「国民栄誉賞」の礎を作ったのは、間違いなく根本陸夫さんだった。
プレスネット2016年4月23日号掲載