1999年のシーズンオフ。FA権を取得した2選手の動向に注目が集まった。広島の球団関係者は緒方の〝残留〟に、正直ホッとする一方で、江藤の〝FA移籍〟は、初めから「出て行くなら仕方がない」という、諦めムードだった。緒方の思いに、巨人軍は急きょ方向転換。元々、「取るなら江藤」と緒方以上に江藤に対して興味を示していたのは長嶋監督だった。実のところ緒方にぞっこんだったのは、次期監督候補の原だった。「大砲ばかりそろえたウチ の野球を変えてほしい」と原の目指す野球は打撃中心ではなく、細かいプレーを交えた機動力野球だった。
当初、原に対する思いやりで「緒方を取る」とした長嶋監督の〝親心〟は、緒方の「カープ愛」によって消滅。江藤獲得への1回目の交渉は、広島のホテルで夫人同伴の夕食会となった。2回目は東京の帝国ホテルで最終交渉。長嶋監督の熱意は、指揮官が背負っていた背番号「33」を譲ることと、巨人軍に〝終身雇用〟として、現役引退後は球団職員(スカウトか編集部)かコーチ職の好条件 を示したこととなって表れた。
この誠意に江藤夫妻の気持ちは一気に和らぎ1999年の11月、晴れて巨人入りを決断。2000年2月の宮崎キャンプでは33番の背番号を譲り受けた江藤が、現役時代の「3番」のユニホームに袖を通した長嶋監督のノックを追う姿が新聞、テレビで大きく扱われた。
一方、この年の緒方は野球生命をも脅かすような大けがに見舞われた。開幕直後に右足首、両膝を相次いで故障。全治一カ月と診断 された。しかし、両膝の痛みは一カ月が経過しても引かず、6月には手術を受けた。
結局、この年、緒方は21試合に出場したのみ。さらに、チームにはケガ人がまん延した。野村(元監督)が両足を、前田智は右アキレス腱を切り、シーズン途中から主力3人そろってアメリカへリハビリ治療に行くという最悪の事態となった。達川監督は機能しなくなったチーム(5位)の責任を取り、わずか2年目で退陣に追い込まれた。
その後の緒方は02年から不死鳥のようによみがえ り、130試合に出場して打率3割をマーク。翌年が122試合2割9分2厘、05年には打率3割0分6厘。ホームランも4年連続で20発以上放っている。
FA権を行使せず、現役引退後、監督となった緒方は2年目の開幕ダッシュに成功。長らく遠ざかっている25年目の優勝へ向けて、チーム一丸となって邁進している。逆に今シーズンの江藤は巨人の打撃コーチとして打撃不振に頭を痛めている。
プレスネット2016年6月18日号掲載