「波瀾万丈」。彼の野球人生は、この4文字に集約されるだろう。
1966年、広島のドラフト一期生(4位)として宮崎商から投手として入団した水谷実雄(68)。広島のキャンプ宮崎・日南からさらに南へ約30キロ離れた林業と農業が盛んな町、串間市の出身。高校野球では夏の甲子園(この年の1966年のみ西宮球場で開催)に出場経験があり、地元では「太陽の子」と注目を浴びた。ところが広島入団が決まったとたんに、18歳の少年を襲ったのが腎臓病だった。
顔中に吹き出物ができ、キャンプ不参加の入院治療。そこからついたニックネームが腎臓の腎から取った「ジンちゃん」だった。病状が落ち着き、練習に復帰した水谷を待っていた次なる試練は打者への転向だった。広島の初代監督で、この年70歳でヘッドコーチとして復帰した石本秀一が、打者としての水谷の才能を見抜き、投手を諦めさせた。
老眼鏡を鼻の下までずり落とした石本は、老骨にむち打ちながら、わが孫のように手取り足取り教え鍛えた。
「寝る間も惜しんでバットを振った。百姓をやるために串間には帰れんけ。あのジイさんが目をかけてくれんかったら野球界のワシはとうの昔に消えていたよ」。後にそう振り返ったように、当時の水谷は練習、練習また練習に明け暮れた。腎臓病は完治しなかった。疲れがたまると吹き出物ができたが、それでも彼はバットを振り続けた。ただ、入団3年間は素質を認められながらも二軍暮らしが多かった。結婚したこともあり、「貧乏だった。6畳一間のアパートに帰って冷蔵庫を開けると中にはラーメン一個だったことも…。女房には迷惑をかけたもんだよ」とそっと聞かされたこともあった。
一軍に定着したのは入団4年目。広島が初優勝した75年には同年代の衣笠、山本浩二に続く「最強の5番打者」といわれるまでになった。78年には打率3割4分8厘で首位打者に輝いた。
だが世代交代のチーム事情から82年オフに阪急(現オリックス)へ移籍すると、アクシデントに襲われた。移籍2年目の開幕戦で頭部へ死球を受けたのである。三半規管をやられ、翌年85年の引退につながってしまった。病気、貧乏、頭部死球。まさに水谷の現役生活は〝波瀾万丈〟そのものだった。
引退後は阪急、広島、近鉄、ダイエー、中日、阪神と各球団の打撃コーチとして多くの選手を育てあげた。中日、阪神時代の監督だった星野仙一(現楽天球団副会長)は「ジンちゃん、ジンちゃん」とその熱血指導を高く評価した。
プレスネット2016年7月30日号掲載