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(THU)

 第31回 「壮絶な練習量で連続試合安打の日本記録樹立」

  • 2023/08/30

室内練習場をねぐらに 
古葉の申し子『ヨシヒコ』

 1975年(昭和50年)、広島を球団創立以来初優勝に導いた後、79年、80年、84年と3度のリーグ優勝と日本一を果たし、広島を〝常勝軍団〟に変革させたのが古葉竹識監督だった。

 その古葉の「申し子」と言われたのが、今回の主人公・高橋慶彦である。「ヨシヒコ」の愛称でファンに親しまれた古葉の申し子は、猛練習から実力をつかみ取り、人気者になっていく。

 74年に東京・城西高からドラフト3位で入団。投手から即遊撃手に転向。右打ちながらも、スピード感あふれる俊足は即、古葉監督の目に留まり、左右打ちの「スイッチヒッター」を命ぜられた。それからのヨシヒコは、明けても暮れても練習、練習の毎日。「一年でクビになるのではと思っていたから練習ができるのは幸せだったし、結果がついてくればさらに幸せと思っていた」。当時、負けん気の強い少年から上昇志向の強い青年期に変わろうとしていたヨシヒコの目の輝きは、いまもって鮮明に覚えている。

 北海道芦別市にあった炭鉱町の生まれ、父親はスキーの国体選手。「ヨシヒコの動きは野生動物的。精神力も強く、何事にも前向きで闘争心がある」。彼の才能を見抜いた古葉監督は、ヨシヒコには自らノックバットを持って、徹底的指導に当たった。

 78年に遊撃手のレギュラーに定着。翌79年には33試合連続安打の日本記録を樹立。高校を出てわずか5年目、古葉監督手作りの選手がやってのけた偉業だった。いまだに破られることのない記録達成の裏には、壮絶な練習量があった。

 当時、広島市民球場から約3キロ北にあった三篠町の合宿所(三篠寮)には、打撃マシンがやっと2台置ける狭い室内練習場があった。ここが、ヨシヒコの〝ねぐら〟同然の居場所だった。朝の9時前には「カーン、カーン」という打撃音が響き渡っていた。10時も過ぎたころから、他の選手がやって来ても入る余地はなかった。どん欲なまでの、練習ぶりに若い選手はあ然としていた。球場入りするまでのたっぷり2時間、室内練習場はヨシヒコの独壇場となっていた。ナイターが終わっても同じ場所にいた。近所住民からは打球音に苦情が出たこともあった。練習の証として両手のひらは、まるでコンクリートで固めたように硬く、同僚の達川光男が「あの練習にはついていけん。ワシだったら試合までに体力がもたんよ」と舌を巻くほどだった。

 ヨシヒコは古葉監督に叱られるのも一番だった。エラーをしてベンチに戻ると、必ずベンチ裏に呼ばれて足蹴りされた。一方で先輩の衣笠祥雄や江夏豊にかわいがられた。野球談議が大好きで、キャンプ地(日南)の夜などは2人の間に入って、生意気を言っては怒られた。マンション暮らしを始めてからは、真夜中に高級車のポルシェを走らせドライブに出かけることも多かった。特に88年に新人の野村謙二郎(元監督)の入団以降、ヨシヒコの生活は少々乱れがちになった。開幕2日前に予定された球団行事のファンとの〝壮行会〟への出席を「いまそんな時期ではない」と拒否してペナルティーを科されたことも。91年にロッテ、92年に阪神と移籍し、92年限りで引退。その後はダイエー(現ソフトバンク)でコーチを、ロッテではヘッドコーチを務め、今年からオリックスの打撃コーチとして指導に当たっている。「古葉さんあってのボクの野球人生でした」と古葉を生涯の恩師として慕っている。

プレスネット2016年8月13日号掲載

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