広島カープが25年ぶりの優勝のゴールを切った。歓喜に包まれた緒方監督の79番が胴上げされて、ナインの輪の中で1回、2回、3回…宙に舞った。真っ赤に燃え上がる応援を全身に受け、ナインの表情は実に頼もしい光景だ。
「空白の24年間」―。1991年以降、優勝から遠ざかっていた。日本プロ野球界の球団で、最も長いブランクだった。
「あの時」も夢を追い求めて25年目で手繰り寄せたVゴールだった。初優勝は75年。背後から迫りくる中日ドラゴンズの不気味な足音におびえながら、129試合目で優勝を決めた。苦闘のシーズンだった(当時はシーズン130試合)。後楽園球場に乗り込んでの巨人戦。9回にホプキンスの3ランホームランが外野席に突き刺さって、初めて味わうVゴールへ何とかたどり着いた。39歳の若き指揮官古葉竹識が率いる「赤ヘル軍団」に広島ファンは歓喜し、涙を流した。3年連続最下位からの、まさに奇跡の優勝となった。被爆地ヒロシマの復興のシンボルとばかり、広島ならず日本全国の人々がエールを送った。
今期の優勝が25年ぶりというと、ほぼ一世代に当たる。私には75年と今年のシーズンが同じ時間だったとはとても信じられない。今年は、追い詰められた終回での逆転勝ちやサヨナラ勝ちが多く、ドラマチック・カープを演出。強くて独走状態のゴールだったからだろう。
優勝の裏にスカウトの眼力
1991年、カープは「ミスター赤ヘル」こと山本浩二監督の下で、何とか5年ぶりに球団通算6度目のリーグ優勝を果たした。後になって振り返ってみると、それは75年の初優勝からずっと続いた「常勝軍団」の最後の頂を意味していた。翌年からの2年連続Bクラスで山本監督が退くと、人望の厚い三村敏之監督が「個々のつながりを大事にした野球」でチームの立て直しに取り組んだ。
三村監督3年目にあたる96年。2位を11ゲーム以上離し、セ・リーグを独走していたカープは、アトランタ五輪の後、失速、ゴール目前で巨人に抜き去られた(最終的に3位)。いわゆる「メークドラマ」の衝撃は、チームに深い傷を残した。機動力や粘り強さといったカープのカラーが次第に色あせていき、98年から世紀をまたいで何と15シーズンも連続Bクラスに沈んでしまったのだった。
96年のチャンスを逃した後、私は生きているうちにもうカープの優勝を拝めない…と半ば諦めていた。何かの因縁だろうか、カープの独走となり、後半戦へ突入した今季のペナントレースも、リオデジャネイ ロのオリンピック時期と重なった。巨人の猛追を感じて、悪夢の再現が私の頭をよぎったが、心配はいらなかった。4・5差にまでゲーム差を詰め寄られても、今年のカープはたくましかった。屈辱の96年と、どこが、どう変わっていたのか。
私は今回の優勝の裏には、広島東洋カープの編成、スカウトの能力を下地とした見事なチーム作りがあったと信じている。86年のドラフト会議で緒方孝市(鳥栖高)を獲得した。89年には野村謙二郎(駒 沢大)と江藤智(関東高)、翌年には前田智徳(熊本工)がそれぞれ加わり、92年に金本知憲(東北福祉大)が入団。全員がスターダムへと、のし上がった。それでもなぜかカープは優勝できなかった。三村の退任後は、達川晃豊(光男)が監督(99~2000)に就いた。だが、かつての名捕手はツキに見放された。野村、前田智、緒方の主力バッターが続けざまに故障し、シーズン中からリハビリのためアメリカに渡ってしまう。残った江藤もFAで巨人へ 移った。2000年には金本(03~阪神)がトリプルスリーと孤軍奮闘したが、やはり優勝など望むべくもなかった。
達川の後、ブラウン、野村謙二郎が監督に就いた。そして野村カープ(10~14)の5年間でようやく上昇の兆しが見えてくる。復興への道のり。それは「常勝カープ」が苦労してたどった道と重なっている。
広島の街で古葉竹識さんを取材した。かつての名将は、若手、中堅、ベテランが融合した年齢層でバランスの取れたチーム構成を、今季の勝因に挙げた。もちろん黒田、新井のベテランの存在が大きく、若い鈴木誠也の成長ぶりも見逃せない。
ベテラン2人、若鯉育てる
チームを引っ張ったベテラン2人の活躍が光った。「死に場所」を古巣のカープに求めた新井貴浩。入団時、ドラフト候補になかった新井の存在を、駒大の先輩野村謙二郎が直々に球団の幹部へ伝えた。6位指名での入団が決まった。
先にFAした金本知憲が何かにつけて、その新井をかわいがった。「お前を入れてくれた人、育ててくれた一人ひとりを思い出せ。その思いだけは胸にしまい込んでおけ」と。
移籍先の阪神でくすぶっていたのを拾ってくれたのもカープだった。ヤンキースから戻った黒田と比べると、年俸はわずか20分の1。お金の問題ではなかった。カープの勝利になりふり構わぬ39歳に、後輩が刺激されないはずがない。新井の後ろ姿を見るだけで、若い野手たちは誰一人として力を抜けなかった。
「投」は黒田博樹が手本になった。彼もまた「最後の職場」としてカープを選 んだ。渡米後も延々と接触し続けた球団の熱意と姿勢は最後に実った。黒田はアメリカで仕込んだ数々の変化球を、偉ぶった素振り一つ見せず、惜し気もなく若い投手に伝えた。
野村祐輔をはじめとする投手陣の技術的なレベルアップは、前田健太の穴を埋めても余りがあった。黒田と新井は元々仲が良かった。石原慶幸や永川勝浩らを連れ立って、食事やゴルフの時間を共有していた。そんなつながりも、カープには幸いだったといえる。
菊池、丸、田中、鈴木誠
〝新生カープ〟野村構想から緒方監督へ
日本中がリオデジャネイロ・オリンピックにわいたこの夏。激しいペナントレースのさなかに、私はカープの優勝を確信していた。
8月7日のマツダスタジアム。1点を追う9回裏の2死後、菊池涼介が巨人の守護神・沢村から同点本塁打を放った。丸佳浩が四球でつなぎ、ベテラン新井貴浩のサヨナラ二塁打で大逆転のドラマを締めくくった。
マジック「20」が初めて点灯した翌日、8月25日の東京ドーム。同じく1点ビハインドの9回表2死三塁の土壇場から、やはり菊池の三塁内野安打で追いついた。これでカープナインに火がついた。沢村投手にとっては悪夢の続きを見ているような気がしたことだろう。丸、新井の連続安打でたちどころに計3点を奪って勝ち越し、マジックは18に減った。
ゴールをしっかりと視界にとらえたナインは、プレッシャーすら感じさせなかった。25年ぶりのセ・リーグ優勝が、この時点で決まっていたのは間違いない。
次の世代を代表する若い力がスカウトたちの眼力によって次々とカープに加わり、心も体も地力を つけていった。2011年には、最初の3年間をファームでみっちり鍛え上げられた、プロ4年目の丸佳浩(千葉経済大附高)がレギュラーを取った。翌12年には菊池涼介(中京学院大)が、14年になると田中広輔(東海大~JR東日本)が新鮮な戦力としてスタメンに名前を連ねるようになった。
高卒、大卒、社会人出身と、アマ時代のキャリアが異なるこの野手3人は、偶然にも「同学年」という太くて赤い糸でしっかりと結ばれていた。3人には、高校球児のような仲間意識といい意味でのライバル意識が交錯し、彼らに刺激を受けるように、チーム全体の競争の質が急激に高まっていった。新鋭の〝神ってる男〟鈴木誠也(東京・二松学舎大附高)の急成長も目を引いた。優勝後、「優勝の味、最高でした。2本もホームランが打てるなんて…。ことしは3試合連続アーチを打ってから〝神ってる〟と言われるようになった。最後の最後まで神っていたい」(スポーツ報知より)とコメント。
野村前監督の胸には丸、菊池、田中、鈴木誠を野手陣の中核に据える〝新生カープ〟の姿が早々と描かれていた。野村からバトンを受けた緒方監督の2年目。1番から3番まで続くカープ不動のオーダーこそ、野村構想の実現と言えるだろうが、構想を引き継いだ緒方監督が開花させた。
プレスネット2016年9月17日号掲載