「打撃の職人」と呼ばれバッティング技術に関しては右に出る人はいなかった。1968年(昭和43年)、「若手の手本になってほしい」(故松田耕平オーナー)と〝大物トレード〟で広島入りしたのが山内一弘。
「ヤマさん、ヤマさん」 と親しまれ、当時のスーパースターとしては、決して威張ることもない〝庶民派〟だった。毎日オリオンズに入団(現ロッテ)後、1964年、「世紀のトレード」といわれた小山正明投手との交換で阪神入り。広島には2年間在籍した。実働19年間の戦績は 2271安打、396本塁打、通算打率2割9分5厘。首位打者1回、本塁打王2回、打点王4回のタイトルを獲得した。
セ・パを通じて7回のタイトルは、プロ野球の歴史にさん然と輝いている。オールスター戦になると、その昔の豪華景品の単車(バイク)やテレビ、冷蔵庫などを一手にかっさらっていった。広島入りして1年目の2月の日南キャンプでは、一日目からレフトスタンドへポンポンと打球を打ち込んだ。主力打者の山本一義がびっくりし、若い衣笠祥雄もあきれ顔で打球の行方を追った。内角球を 打つテクニックはプロ野球でだれもマネができなかった。「インサイド打ちの名人」と呼ばれた。左足を上げて、両ヒジをたたんで下半身を素早く回転させる、というものだ。多くの強打者が胸元へのボールは怖がり腰を退く。山内はその厳しいボールを平気でホームランにした。「打撃の職人」たる由縁はそこから来た。理屈で割り切り、合理主義者でもあり、独特な哲学を持っていた。
山内は「教え魔」としても名が通っていた。ツバをとばしながらの身振り手振りの指導は、止まることがなかった。いつの日かテレビのコマーシャルで有名になっていたカルビー社のかっぱえびせんの歌詞をもじり、「やめられないとまらないヤマさん(山内)」と言われるようになっていた。
山内の趣味は狩猟だった。オフのトレーニングはもっぱら鉄砲を肩にかけて山、野を駆けまわっていた。「ワシのトレーニングは鉄砲撃ちで足腰を鍛えるんや」と、日南キャンプの休日には、必ず地元の狩猟仲間とイノシシ狩りに出かけていた。何度かししなべをごちそうになったが、この場でも冗舌だった。公私に渡り、山内は地味な振る 舞いながらナインからもファンからも愛された。広島に移籍したシーズンは、打率3割1分3厘でチームからただ一人ベストナインに選ばれた。移籍2年目の1970年(昭和45年)には前人未到の通算4000塁打を記録。多くの大記録を残して同年10月8日、広島を最後に38歳で現役を引退。後には中日の監督や巨人の打撃コーチを務めた。
プレスネット2016年10月8日号掲載