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 第39回 「野球知識に長けた男 大下剛史」

  • 2023/08/30

 地元の名門、広島商から駒大と二塁手として内野陣を統率してきた男が、1974年のオフ、日本ハムから広島に移籍してきた。大下剛史である。瞬く間に玄人もうならせる技術(走攻守)で、カープファンの心をつかんだ。

 「あの子は野球に対しては知能犯じゃけ」「2つも3つも先を読んで野球をするけ」。初優勝した75年。同じ年、米国からやって来た強打者のゲイル・ホプキンスが、こう称賛したことがある。「ツヨシ(大下)ほどの野球知識を持った選手は、そうそうメジャーにもいないよ」。二塁手の大下は、対戦する各打者の打球方向を〝サイン〟として、一塁手のホプキンスに送っていた。ホプキンスはその指示によって守備位置を変えていた。打者としても、トップバッター(一番)として巧打を放った。左翼前のヒットを二塁打するや、すかさず三盗と〝いだてん〟ぶりを発揮した。盗塁王(44個)のタイトルを獲得し、チームの初優勝に貢献した。

 171cm、56キロの細身の体ながら「暴れん坊将軍」の異名を取り、東映(現日本ハム)でもチームの中心にいた。個性派で気が強かった半面、愛嬌もあった。ヤクルト戦では出塁するたび、東映時代に同じ釜の飯を食った一塁手の大杉勝男に「一塁線に打球がいったらヒットにしろよ!」と、冗談口をたたいた。大杉も真剣な表情で正面のゴロをミットに当てながら、見事な演技?でヒットにしていたという。同じ東映時代の大先輩・張本勲は同郷のよしみから大下をかわいがった。現役を退いた後も、私と顔を合わせるたびに、「剛史は元気でやっとるか。あいつはかわいいやつじゃけえの。何かあったら協力してやってくれよ」と広島弁で繰り返した。

 酒豪でもある大下は、当時広島市民球場の正面玄関に設置されていた赤電話から、試合が終わると記者席の私に、よく電話をかけてきた。「まだ仕事が終わらんのか。早よう、飲みに行こうや」。何度、慌てて原稿を書いたことか。

 34歳の若さで引退した大下は、その卓越した野球理論と情熱を買われ、翌年の79年から二軍のコーチに就任。91年の山本浩二政権では、球団6度目の優勝を果たしたときのヘッドコーチとして手腕を発揮した。グラウンドでは「鬼軍曹」として知られ、厳しい練習で選手から怖がられた。

 一度ユニホームを脱いだが、2000年、達川光男監督時代にヘッドコーチを一年務めて退団した。野球知識においては、球界でも「大下ほどの男はいない」(張本)傑出した人物だ。

プレスネット2016年10月22日号掲載


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