佐伯和司
波瀾万丈の野球人生を送った男を紹介する。性格はひょうきんな半面、落ち込みも激しい。野球では投球術にたけていた。佐伯和司投手が、その人物。地元の名門、広陵高出身。甲子園のマウンドでは脚光を浴びた。1971年(昭和46年)、広島からドラフト1位指名を受けた選手だ。
面白いのは、サンフランシスコ・ジャイアンツから入団要請を受けたことだ。極東地区担当だった日系二世のキャピー原田スカウトが、突然広島市内の佐伯の実家にやって来た。
熱心な交渉を受けたが、結局佐伯は「ぼくは英語ができんけぇ」との理由で、カープへの入団を決めた。高校球界屈指の右腕は、3年目の73年フォークボールを覚えて19勝をマーク。「一つの球種(フォーク)が自分の人生をかえる。負ける気がせん。三振を取ったときの快感は何とも言えんけ」。勝ったときには、面長の顔をクシャクシャにして笑う。そうかと思えばKOされると、ロッカールームに閉じこもって出てこない。落ち込みようは半端ではなかった。よく似たピッチャーがいた。「炎のストッパー」と名をはせた津田恒美で、似通った部分があった。
入団5年目の75年から、佐伯は外木場、池谷と〝三本柱〟の一角を担い15勝をあげて初優勝の原動力となる。
この年、開幕間もない4月27日。甲子園球場での阪神戦、佐伯が掛布へ投げた一球が「ボール」となった判定を巡って、激高したルーツ監督が退場処分となり〝職場放棄〟をして米国へ帰って行った。
引き継いだ後任の古葉監督が、チームをまとめて球団史上初の優勝ゴールへ。佐伯は「よくも悪くもあの一球が、優勝へ導いたことになったのではないのか…」と運命の一球を強調した。
佐伯は77年に日本ハムへ移籍した。4年間在籍後、81年には打撃投手として広島に復帰した。華やかだったかつての栄光のマウンドから、若い打者に向かってただひたすらにストライクを投げ込む役割。「ストライクが入らず、バットを投げつけられたこともあったよ。自分もエースと呼ばれたころ、バックがエラーすると怒りをぶつけたことがあった。あの裏返しだよ。我慢は、あの時に覚えたんよ」。次のポジションはスコアラだった。そしてスカウトへ。「みんなからは〝あの佐伯が〟と奇異な目で見られたかも知らんが、自分では納得だよ」。
私から見れば、佐伯は野球人としてまさに〝波乱〟に満ちた人生だった。
プレスネット2016年12月17日号掲載