上田利治
捕手としての現役時は、パッとしなかった上田利治が、弱冠25歳にして広島のコーチに就任。その後阪急、日本ハムの監督を務め「名将」のサクセスストーリーを歩んだ。
野球界の頭脳派だった。その上に〝口八丁手八丁〟の情熱指導。上田は1962年(昭和37年)、関西大学から広島に捕手として入団。現役生活はわずか3年間で鳴かず飛ばずだった。初代オーナーの松田恒次(東洋工業社長=現マツダ)の強い要請もあって、弱冠25歳で二軍コーチに就任。
学生時代は、かつて阪神のエースから監督への道を歩んだ村山実と4年間バッテリーを組んでいた。2人は「ムラ(村山)」「ウエ(上田)」と仲のよい間柄だった。
上田は徳島・海南高時代、常に学業トップの成績だった。当初は弁護士を目指し、担任の先生からも「東大へ進んで法律家になれ」と嘱望されていた。
ところが上田は野球があきらめきれず「野球をやりながらも司法の勉強はできる」と関西大へ。ここで村山実との出会いがなければ、あるいは当初の目標(弁護士)をたどっていたかも。
私が入社間もなく、上田の家(当時己斐西町)に招待を受けた。応接間に通されてびっくり。書棚には何百冊もの本がぎっしり詰まっていた。弁護士への夢を捨てきれなかったのか、分厚い六法全集から司法関連のものばかり。私にとってはまるで気の遠くなるような難しい本だった。もちろん野球知識を高めるためのドジャース戦法から多くの著者の書物もあった。
上田の「頭脳派」としての一面を垣間見ることができた。一軍のコーチに昇格すると、日南キャンプではハンドマイクを持って熱血指導。マイクを通してのウエ(上田)さんの高い声が、山に囲まれた天福球場にこだました。その声が聞かれない日はなかった。いまもキャンプになると選手や報道関係者に配られる、その日の練習内容を記したプリントは、ウエさんが考案したものだ。やがて全球団に波及した。
上田は球団上層部との衝突でカープを退団する。中国放送の解説者から阪急西本監督の誘いを受け、ヘッドコーチから監督へ。上田の頭脳は存分に発揮された。75年から日本シリーズ3連覇を含むパリーグ4連覇を果たした。98年から日本ハムの監督を4年間務めて球界を去る。その後野球解説者。2003年に野球殿堂入りした。
プレスネット2016年12月24日号掲載