広島に在籍した外国人選手としては最長(6年間)で最強の〝助っ人〟だった。ジム・ライトル外野手。特に強肩はスタンドのファンを大いに沸かせた。見せ場は走者一死三塁から、右翼へのフライを捕球するや、タッチアップして 本塁に突進する走者を、ものの見事にアウトにした。球界屈指の鉄砲肩はまさに圧巻だった。
ライトルは1977年(昭和52年)、広島を退団したホプキンス(南海へ移籍)との入れ替えでドジャースから入団。鉄砲肩の守備に加え、打撃もシャープだった。1年目、いきなり3割1厘、19本塁打、65打点の成績を残した。このシーズン、戦力低下(5位)のチームにあって「3番ライトル」は山本浩二、衣笠祥雄らに匹敵する打撃力を示し、大いに評価された。
メガネをかけ、きれいにたくわえた〝口ヒゲ〟がトレードマークだった。学者を思わせる風貌で、真面目でおとなしい性格だった。アメリカの大学(農学部)では、教師の免状を修得していた。「向こうに帰ったら農場を経営する」といつも夢を話していた。
日本の野球に対する探究心も旺盛だった。投手の球種、配球。審判のクセ(ストライクゾーン)など刻銘にメモを取り分析。
その効果は2年目に発揮された。打率2割9分1厘、33本塁打。108打点。古葉監督はチームプレーに徹した堅実な野球を、ことあるごとに称賛していた。ライトルを獲得した駐米スカウトのフィーバー平山は「掘り出し物だった。カープに合う人を連れてきたんだ。彼はプレーヤーとしても人間としても立派な人材」と鼻高々だった。
カープは、75年の初優勝以来、79年、80年と連覇を果たした。ライトルの攻守に渡る貢献ぶりはひときわ目立ち連覇に貢献した。特に80年、近鉄との日本シリーズでは爆発的な活躍を見せた。スコアラーから配られたメモとビデオをじっくり観察。第4戦での決勝2ランを始め、打ちに打ちまくった。打率4割、3本塁打、6打点。最高殊勲選手賞に選ばれた。翌年の日本シリーズでも、ライトルは2年連続日本一の立役者となった。
78年から4年連続のゴールデングラブ賞。ベストナインにも選ばれた。
6年間、カープに在籍した後、83年、南海(現ソフトバンク)に移籍。アメリカに帰国後は、フロリダ州で農場を営みながら、当分はマイナーチームの打撃コーチを務めた。
プレスネット2017年1月28日号掲載