広島元監督 根本陸夫
「ネモさん」「親分」球界では〝強面〟と言われた根本陸夫。1969年、広島の監督2年目のシーズンオフのこと。
「おいコマ、ついてくるなら来てもいいぞ」11月中旬、根本はそう言って声をかけてくれた。当時、私は毎晩のように広島市内吉島の根本の自宅に通っていた。
前年の監督就任1年で、根本は万年Bクラスのチームを、球団初の3位Aクラスに導いて、その手腕は高く評価された。しかし、この年は最下位に転落。チーム改革を掲げて、ネモさんはコーチ探しに出かけたのである。
同乗を許された新幹線で、組織づくり、チームづくりについて熱く話してくれた。この「旅」がどこへ向かい、何をしようとしているのか。私には知らされていなかった。東京駅に着き、東海道線に乗り換えて川崎へ。私は後ろをついて行くだけだった。
「ネモさん、いったいどこへいくんですか?」と聞いても明確な返事はない。改札口を出るとネモさんは駅前のビルの地下へ。当時はすでに野球解説者として活躍していた関根潤三が経営する名の通った喫茶店「プランタン」だった。
ネモさんと関根の話は約1時間半に及んだ。宿泊先の当時の日航ホテルに戻ったあと、つまりネモさんは来季のヘッドコーチに招請し、快諾を得たのだ。
ネモさんと関根は旧制日大三中時代からの親友で、法大―近鉄でも一緒にユニホームを着た。お互いが「ジュンちゃん」「ネモちゃん」と呼び合う仲だった。私は「関根ヘッドコーチ決定」のニュースを送稿した。
ホッとしていると今度は「次は広岡達朗のところへ行く」と66年限りで巨人を退団し、野球評論家になっていた広岡邸のある東京・町田市に向かった。守備走塁コーチとして広岡の入閣を取り付けた。外様の2人をコーチに迎えたことは当時資金に乏しい広島の球団史では画期的なことだった。
70年春のキャンプは関根、広岡、前年に入団していた小森光生と合わせて「シンクタンク(頭脳集団)」として注目された。外部から有能な知識と理論を持ち合わせた人材に間違いなかった。根本の功績は、チームに少なくない影響を与えた。
その後の根本は西武、ダイエー(現ソフトバンク)の事実上のゼネラルマネジャーとして、球界にフロントマンとしての原点を印した。99年に他界した。
プレスネット2016年1月23日号掲載