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鏡山城から曽場が城、そして槌山城へ 大内氏の最末期における安芸国分国支配拠点の歴史【東広島史】

  • 2024/10/04
山城2_槌山城跡
槌山城跡(城跡の南側より遠望)

 東広島にまつわる歴史を探り、現代へとつなぎたい。郷土史のスペシャリストがみなさんを、歴史の1ページへ案内いたします。
執筆:天野 浩一郎

城跡の位置図

曽場が城跡(そばがじょうあと)

はじめに

 曽場が城は、大内氏が鏡山城に替えて安芸国(あきのくに)支配の拠点とした城です。曽場が城跡は、標高606㍍(比高380㍍)の曽場が城山から東に延びる稜線(りょうせん)上に築かれた城跡で、山陽道の難所のひとつ大山峠(おおやまとうげ)を見下ろす位置にあり、交通の要衝(ようしょう)を押さえていました。(中世の資料には城の名称を「杣城(そまじょう)」と記述)

山城2_曽場が城跡
曽場が城跡(八本松駅より遠望)

大内氏の安芸国支配の拠点〝曽場が城〟

 鏡山城の落城後、大内氏は早速大軍をもって安芸国奪回に乗り出します。総大将に任命された重臣陶興房(すえおきふさ)の反撃によって、1525(大永5)年頃には安芸国のほぼ大半を回復し、武田氏を除き国衆の毛利氏・平賀氏・東天野氏・阿曽沼氏等は大内氏に服するようになりました。
 28(8)年、陶興房は重臣伊香賀壱岐守(いかがいきのかみ)を代官として曽場が城に在城させ、大内氏の大軍を安芸国から引き上げました。
 その後、曽場が城には東西条の現地責任者〝東西条郡代(とうさいじょうぐんだい)〟に就任した弘中隆兼(ひろなかたかかね)が在城したとみられ、36(天文5)年から始まる平賀弘保(ひらがひろやす)・興貞(おきさだ)父子の内紛では平賀弘保を支援して頭崎城(かしらざきじょう)を攻める拠点となりました。
 43(12)年、新たに東西条の責任者〝西条守護(さいじょうしゅご)〟(旧・東西条代官)に就任した弘中隆兼は、理由は定かでありませんが、南に4・5㌔㍍離れた槌山城(つちやまじょう)に拠点を移し曽場が城は廃城となります。

山城2_曽場が城跡 赤色立体鳥瞰図(南側)※(注1)

城の構造図 ※(図―1 参照)

 城跡は、標高606㍍の最高所に位置する城域西端の「一つ城」郭群(くるわぐん)と、中央に位置する「主要部」郭群、そして東端に位置する「午(うま)の段(だん)」郭群の3郭群からなります。
 「主要部」郭群は、西端に〝本丸(ほんまる)〟と呼ばれる1郭を配置し、間に2郭をはさんで東側の最高部に3郭が配されています。「主要部」郭群から30㍍ほど低い尾根の南側斜面に「午の段」郭群が造られていますが、9郭の南端近くには立派な石垣のある2段の広い郭があり、そこが支配のための役所のような機能をもった施設であった可能性があります。

山城2_曽場が城跡見取図

おわりに

 槌山城に拠点が移されましたが、この地域の重要性が失われた訳でなく、大内氏は曽場が城跡の北東約2・3㌔㍍の飯田(いいだ)に、新たに平城(土居遺跡(どいいせき))を築きました。土居遺跡は中世山陽道(推定)に面し、東西約200㍍・南北約150㍍の広大な五角形の土地から本丸や大規模な堀、土塁などが発掘されています。

槌山城跡(つちやまじょうあと)

はじめに

 槌山城跡は、西条盆地の南西端、標高488㍍(比高260㍍)の槌山に築かれた城跡です。東に西条盆地を望み、遠く高屋の頭崎城まで見通せます。槌山の南側に戸坂峠(とっさかとうげ)、北側に笹(ささ)ケ峠があり、西条盆地の出入り口として重要な場所に位置しています。

城の歴史

 南北朝時代(なんぼくちょうじだい)の南朝(なんちょう)方の拠点として築かれたとみられていますが、定かではありません。
 1543(天文12)年、安芸国の守護(しゅご)であった大内義隆(おおうちよしたか)は弘中隆兼を守護代(しゅごだい)(守護の代理)として安芸国に派遣し、槌山城に入れました。弘中隆兼は「西条守護(さいじょうしゅご)」とも呼ばれ、安芸国(おおよそ広島県西部)と備後国(びんごのこく)(おおよそ広島県東部)南部を管轄します。槌山城は両国の守護所として機能したと考えられています。
 51(20)年陶隆房(すえたかふさ)は主君大内義隆を討つと、義隆派がこもる槌山城を毛利氏はじめ安芸の国衆たちに攻撃させます。槌山城には城番(じょうばん)の菅田宣真(すげたのぶざね)、大林和泉守(おおばやしいずみのかみ)らのほか頭崎城から逃れてきた平賀隆保(ひらがたかやす)がいたとされます。城下の戦いで敗退した城方は降参し、前記の3名が切腹し他のものは許されたと伝えられています。
 槌山城は「守護山(しゅごさん)(守護の城?)」だったので、後に毛利氏が管理することになりましたが、城番は毛利氏内の人材不足により菅田・大林の関係者に任せたと考えられています。

山城2_槌山城跡 赤色立体鳥瞰図(南側) ※(注1)

城の構造 ※(図―2 参照)

 1郭を中心とする山頂郭群、西側尾根上の西郭群、東側支峰(しほう)の東側郭群に分けられます。
 1郭は東西約50㍍、南北約20㍍の規模で3段に分かれています。西端の段の南側に虎口(こぐち)(出入り口)があり、そこに通じる通路に対し横矢(よこや)(敵を側面や背後から攻撃)が掛かるよう、矩形(くけい)の張り出しが設けられ、石崖が随所に見られます。1郭から東に下る幅の広い通路は幹線道路として整備され、訪れる人たちに威厳を示した遺構と考えられます。
 山頂郭群の東端から約30㍍低い位置にある東郭群は、10郭を南北から通路が上がる大手郭(おおてくるわ)とし、東に空堀(からぼり)を挟んで一段高く拠点的な11郭を配しています。11郭に役所的な建物があったと思われます。

山城2_槌山城跡見取図

おわりに

 槌山城跡は大内氏の守護所に相応した大規模なメリハリのきいた城跡です。東隣には、約80㍍四方の竹内家屋敷跡(たけうちけやしきあと)や40㍍四方の煙硝屋敷(えんしょうやしき)など城館跡(じょうかんあと)が見られ、往時の雰囲気を残しています。
 55(24)年、毛利氏は〝厳島(いつくしま)の戦(たたか)い〟で陶晴賢(すえはるかた)を討ち、戦線は周防(すおう)・長門(ながと)両国(現・山口県)へ移ります。それ以降は安芸国での戦闘はほぼなくなり、安芸国支配の中心も西条盆地から毛利氏の本拠地(吉田)郡山城(こおりやまじょう)に移りました。槌山城は、大内氏の最末期における分国支配(ぶんこくしはい)の拠点となった城の姿を変えることなく現在まで残し、1978(昭和53)年「市史跡」に登録されました。

※参考文献:「安芸の城館」他

※(注1)
アジア航測(株)が開発した「赤色立体鳥瞰図」とは、航空レーザー測量から得られた数値標高データ(DEM)から、傾斜量を赤色の彩度で、尾根谷度を明度で調整した、まったく新しい地形の立体表現です。

プレスネット編集部

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