東広島にまつわる歴史を探り、現代へとつなぎたい。郷土史のスペシャリストがみなさんを、歴史の1ページへ案内いたします。
執筆:松木津々二
西条酒蔵通りの街は「酒都西條」と呼ばれた近代日本酒産業の街の名残りⅢ
西条が酒都になるまで
「酒都西條」という日本酒産業の街が生まれるまでの話を続けます。その礎(いしずえ)を築いたのが、木村和平・島博三(はくそう)・三浦仙三郎の酒造家3人です。木村和平は早くから灘の酒に興味を持ち、自分の酒造りを継がせる娘婿の木村静彦※(注4)を灘の酒屋に勉強に行かせていました。そのきっかけで仙三郎自身も灘に出かけ、新しい酒造りを学ぶようになるのです。
※(注4)1864現:呉市街の豊田家で生まれ20歳で和平の娘婿になり木村家へ
明治25(1892)年に、全国の酒造組合(酒造研究会)の総会が開かれ、灘のような酒を造るには「宮水」と言われる湧水でなければ、造るのは難しいとわかります。それで仙三郎は別の方法で質の高い酒を造る、新たな技法を「百試千改」して編み出します。それを31(98)年に、「改醸法実践録」という名で本にまとめて公開しました。
この技法はのちに「軟水醸造法」と呼ばれ、全国で主流となる新たな日本酒造りの技法となったのです。その技法誕生を支えたのが、和平・博三・静彦という西條の酒造家であったのです。それに新たに加わるのが石井峯吉※(注5)でした。
※(注5)1868四日市の森川家で生まれ12歳の時に石井家の養子になる
西條町を「酒都」にした男たち
内陸にある西條町に、鉄道駅という陸(おか)の港が完成し、その駅と海辺の港町とを繋(つな)ぐ馬車道も完成して、造った酒をどこへでも運べるようになると、西條の街には次々と新たな酒造業者が生まれ、竹原や三津の港町にも匹敵する「酒造りの街」に変貌していきます。その中で37(1904)年、41(08)年に、広島の酒の質を高めた和平・博三・仙三郎は、順にこの世を去りました。
この人たちの魂(質の高い酒造り)を引き継ぎ、さらに発展させていくのが木村静彦と石井峯吉です。この2人と一緒になって広島の酒を日本一にしていくのが、佐竹利市※(注6)と橋爪陽(きよし)※(注7)という2人の技術者であったのです。佐竹利市は精米機の開発に力を注ぎ、橋爪陽は醸造技師として、仙三郎が生んだ醸造技術と三津杜氏(とうじ)を育てていきます。
※(注6)1863旧:寺家村で生まれ34歳の時に佐竹機械製作所を興す
※(注7)1876現:青森県むつ市で生まれ25歳で国の醸造技手として広島へ
橋爪技師が高めた醸造技術と、利市が開発する新たな精米機によって、のちに「広島流吟醸造り」という現在の吟醸酒や大吟醸酒に繋がる、近代日本酒産業の最高峰の技術となっていくのです。
「酒都西條」誕生の物語
40(07)と44(11)年から、当時の東京市郊外の滝野川村※(注8)に完成したばかりの大蔵省醸造試験場で、清酒造りの全国大会「清酒品評会」と「新酒鑑評会」が開催されるようになります。この両品評会で、灘の酒を抑えて常に上位占めていたのが広島の酒でした。
※(注8)現:東京都北区王子にあたり、滝野川の地名は1丁目~7丁目まである
大正に年号が代わってからは、その中でも西條の酒が目立つようになります。そのころから入賞する酒の多くが、「吟醸造り」と言う新しい技法で造られているのを全国の蔵元が知りました。それからは全国の蔵元が広島を訪れては、広島の蔵で働く三津杜氏を引き抜いて帰るのです。杜氏が引き抜けないとなると、次の杜氏になりそうな若い蔵人にまで手を出す。こうした青田刈りをされては、広島の酒造りは衰退してしまう。それで立ち上がったのが、木村静彦を始めとした西條の蔵元たちでした。
石井峯吉も一緒になって西日本各地の蔵元たちからも出資を募り、全国初の酒造りの学校「西條酒造学校」を創るのです。そのための酒造業初の株式会社「西條酒造」を創立。大正6(1917)年秋に酒造学校は無事開校し、全国からやって来た優秀な若者たちが、最新の「広島流吟醸造り」を学び、この学校から全国へと巣立っていきます。
木村静彦が初代校長と社長を務め、その翌年と10(21)年には石井峯吉と一緒に再び出資を募り、第二・第三の酒造株式会社を設立。全国でもまだ珍しい酒造会社が3社、街道筋から一本北に入った道の北側にそれぞれの本社社屋を建て、各社は専用の瓶詰場を備え、その真ん中に鉄道の線路を引き込み、瓶詰めされた各社の酒は、直接貨車に積まれ全国へと出荷されて行きました。この最新施設も、西條を訪れる全国の蔵元の見学コースになっていたのです。
昔の街道筋に2㌔㍍にわたって、最大時は13軒の造り酒屋が並び、その街並みの北側には、鉄道に沿って3社の酒造会社の工場群が建ち並ぶ。昭和4(29) 年には街の中に県醸造試験場が移転して来て、街の南にある県立農学校に隣接した県農事試験場の試験農場では、酒米の研究が行われ、この市街地に精米機の製作所が三つもできます。戦前の日本の酒造業をけん引した日本酒造りの首都(中心地)=「酒都西條」は、こうして誕生したのでした…(しかし戦後になって酒都の概念は消える)。
東広島郷土史研究会
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