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つなぐ つながる つなげる東広島史 今回のテーマ「学校」Ⅰ

  • 2024/06/24

 東広島にまつわる歴史を探り、現代へとつなぎたい。郷土史のスペシャリストがみなさんを、歴史の1ページへ案内いたします。
執筆:國松 宏史


昭和初期頃の絵葉書 中央に西条駅、右下が西条小学校、左下は御建馬場(現・御建球場)
昭和初期頃の絵葉書 中央に西条駅、右下が西条小学校、左下は御建馬場(現・御建球場)

学校教育

はじめに

 東広島市内の小学校・中学校は、広島県はもとより全国的に見ても、学力・体力とも高いレベルにある。これは、全国的に実施される学力テストや体力テストの結果からも伺うことができる。その原点はどこにあるのか。 教育の黎明(れいめい)期であった、明治新政府の「国の発展(近代産業の発展)は教育にあり」という教育普及への思いや当時の西条町の初等教育、中等教育機関を振り返ってみる。



近代学校制度のはじまり

◆学制頒布

 明治政府は、明治5(1872)年8月、幕末・維新期の藩校や私塾、寺子屋による教育制度を一新し、全国民を対象とした教育の普及と機会均等を目指す画期的な新たな学制を定め、全国に頒布(公布)した。その序文で新しく学校を設立する理念を次のように述べている。


◆何故、勉強をしなければならないか「学問は身を立てる財本」

 「人が立身出世し、悔いのない生涯を送るためには学問を修めなければならない。この学問のために学校は無くてはならない働きをもっている。そして、学校という機関を通して勉励(べんれい)してこそ、はじめて立身出世できるのである。人間がその身を滅ばすのは多く不学にその原因がある。従来一般の人々は学問をするのは身分の高い人に限るとして、学問の必要性を認めていなかった。何のために学問をし、学問がいかなるものであるかの認識が極めて乏しかったのであろう。そこで、文部省は学制を定めて従来の民衆の学問に対する考え方を改めさせ、一般の人々に等しく学問を授けることを計画し、実現することを希望するものである。学齢期の子女をもつ父兄は、何はおいても必ず子どもたちを小学校に入学させるよう心掛けなければならない」と述べている。



小学校設立

 明治政府は、近代産業の育成、四民平等のスローガンの下に、「邑(むら)に不学の家なく、家に無知の人がいないようにする」という大きな抱負をもち、小学校の創立を急速に進める。設立、運営に要する経費は村が責任を負うことを原則とした。各村は租税、寄付金、積立金、授業料等の民費をもって、学校の運営を図り、その不足分を国庫から補助することとした。


明治初期の授業風景
明治初期の授業風景


西条町域の小学校創設

 学制頒布を受け、現在の西条町域15村は急きょ小学校を創設した。
 明治5年=四日市次郎丸村(修身館)。
 明治6年=寺家村(成趣館)、西条東村(博愛館)、土与丸村(振起館)、助実村(観国館)、御薗宇村(集義館)、郷曽村(維新館)、田口村(伝習館)、福本村(強恕館)、馬木村(明道館)、森近村(興譲館)、下見村(成就館)、大沢村(日進館)。 明治7年=上三永村(格物館)、下三永村(九思館)が創設された。
 その基は、幕末から明治初年にあった、地元の私塾、家塾を小学校に移行したものである。校舎は、寺院や民家を充てていたので設備は完備せず、授業料徴収の経済的負担もあり、明治6(1873)年の就学率は、全国的には男子39・9%、女子15・1%、平均28・1%だったと言われる。

明治初期の教科書『小学入門』『小学読本』(鹿島町史第4巻)より
明治初期の教科書『小学入門』『小学読本』(鹿島町史第4巻)より 教科は修身・算術・読書・作文習字・体操の6科目であった。


頒布時の学制 主な初等、中等、大学教育制度

学校種年 数修業年齢
小学校下等科4年制6-10歳
小学校上等科4年制10-14歳
中等学校下等科3年制14-17歳
中等学校上等科3年制17-20歳
師範学校2年制20-22歳
諸芸/理/医予科3年制16-19歳
本 科4年制19-23歳
(最高学府)大学校不 定20-21歳~


◆小学校創立150周年

 明治5年に創立された全国の小学校は、令和4(2022)年に「創立150周年」を迎えた。東広島市内の小学校は、明治6年に創立された学校も多く、昨年度(令和5年)創立150周年を迎えた。



西条小学校沿革

 西条小学校は、明治5年に私塾「修身館」が簡易小学校として四日市次郎丸の民家を借用して創立された。教科は習字を主とし読書、算数を従とした。館の経営は塾生の謝礼を充てていた。以後、「四日市小学校」、「上西条小学校」、「四日市尋常小学校」と校名を変えながら、適宜家屋を借りて移転していた。明治41(1908)年、西条駅北、黒橋を渡った西条町畑中に移り、西条町立西条尋常高等小学校として移転し開校した。
 昭和34(59) 年4月、西条小、御薗宇小、下見小を統合。同35(60) 年4月、吉土実小を統合する。同37(62) 年、各地域から通学しやすい、現在地の西条中央2丁目の向山山頂の高台に移転し開校した。


◆社会基盤整備/児童数急増による分離

 同48(73)年、広島大学の統合移転先が西条町に決定し、「賀茂学園都市建設」がスタートする。次に、同59(84)年から「広島中央テクノポリス開発」が始まる。この2大プロジェクトを柱に社会生活基盤の整備や産業基盤が整備され、工業団地も造成されていくと、若い世代を中心に人口が急増してくる。
 それに伴い児童数も急増し、同51(76)年には1500人を超すマンモス校となり、同52(77)年に吉土実地区を中心とした学区に「東西条小学校」分離。同56(81)年に御薗宇学区に「御薗宇小学校」分離。平成12(2000)年には再び1200人近くのマンモス校となり、同13(01)年に、下見地区を中心とした学区に「三ツ城小学校」分離となる。
 現在も950人前後の児童が在籍するが80~90%はマンションの住民だという。 


〈西条独創教育〉
 西条小学校の教育を語るには「独創教育」というフレーズは欠かせない。
 時代の変遷を経た現在でも脈々と受け継がれている。
〈西条小学校 令和5年度 教育目標〉
 人間性豊かで 創造性に富み たくましく生きる子どもを育成する
〈経営理念 「継承と創造」〉
 (1)めざす学校像:「独創教育」の理念を基に、工夫
   追求・徹底・協働によって新たな価値を創造する学校。
 (2)めざす児童像:何事も自ら進んで「正しく 強く 優しく永く」やろうと
   する子ども。
 (3)めざす教師像:笑顔で寄り添い,子どもの心に共感する教職員。
(西条小HPより)


西条尋常高等小学校跡地(現・西条駅北駐車場)に沿革が記された掲示板がある
西条尋常高等小学校跡地(現・西条駅北駐車場)に沿革が記された掲示板がある


最後まで残った西条駅前区画整理事業(平成15年)市制30周年記念誌より
最後まで残った西条駅前区画整理事業(平成15年)市制30周年記念誌より


コラム1

卒業式の定番
    「仰げば尊し」

 明治17(1884)年に発表され、明治時代から昭和時代までは、卒業式の定番として歌われていた。2番の歌詞には

〝互いに睦(むつみ)し 日頃の恩
 別るる後(のち)にも
 やよ忘るな
 身を立て
 名をあげ やよ励めよ
 今こそ別れめ
 いざさらば〟

と、教師・児童が声高らかに歌っていた。
 西洋に追いつけ・・・の掛け声のもとに、文明開化、近代産業の担い手として学問の大切さと今後の精進を誓い合った歌詞である。時代背景や社会的価値観の移り変わりで多くの学校では歌われなくなったが、50代以上の方々には懐かしく思い出される唱歌である。平成19(2007)年「日本の歌百選」の1曲に選ばれている。



コラム2

幕末期
 日本の識字率は世界一

 現在、日本の識字率は99・96%といわれ世界一である。幕末期においても、来日した西洋人は、日本の識字率の高さに驚いたという。武士100%、庶民の男子は都市部と地方で多少の差があるが50%前後は読み、書き、計算ができたといわれる。武士、僧侶、神官、医師、商人、上層農民を師匠として、藩校や私塾、家塾、寺子屋で多くの若者が学んでいた。一方女子は裁縫、茶道、生け花などに通い礼儀作法を学んでいた。
 ちなみに、当時の世界の最先端都市ロンドンでは10%前後の識字率であった。

東広島郷土史研究会
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プレスネット編集部

広島県東広島市に密着した情報を発信するフリーペーパー「ザ・ウィークリープレスネット」の編集部。

東広島の行事やイベント、グルメなどジャンルを問わず取材し、週刊で情報を届ける。

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