東広島をふらっと歩いてみませんか。見方を少し変えるだけで、その地域の地理や歴史を物語るものが見えてきます。散策しながら地域を学ぶ「地歴ウォーク」の世界へようこそ。
執筆/広島大学大学院人間社会科学研究科教授 熊原 康博
吾妻子の滝の成り立ち②
吾妻子の滝から黒瀬川沿いを下流へ進むと、地点⑦で川の対岸に地層が見える大きな崖があります。この地層は、上から下まで砂や粘土からなる水平な地層で、前回述べた過去の黒瀬川(以下、古黒瀬川)の河床/湖底から徐々にたまった地層にあたります。さて、ここで奇妙なことに気付いてもらいたいです。それは、吾妻子の滝では上から下まで硬い花こう岩に対して、地点⑦では上から下まですべて軟らかい地層です。なぜこのような違いが生じたのでしょうか? その理由を探るため、この地域の川の歴史を断面図で復元してみます。
ある時期、古黒瀬川は地点⑦よりも低いところを流れていました(図のA)。その後、古黒瀬川の下流がせき止められ、この地域に砂や粘土が厚く堆積しました(図のB)。地層中に含まれる火山灰の年代から約50~70万年前とされています。当時、古黒瀬川は広い河床で、川は蛇行していたと考えられます。古黒瀬川が現在の滝の位置の上を流れていたときに、下流のせき止めがなくなり、川が下に向かって侵食(下刻といいます)をはじめました(図のC)。
滝の部分は砂や粘土の層が薄く、その下は硬い花こう岩であったため、川は花こう岩の一部を侵食したにとどまり、下刻することが難しく滝が生じたのです(図のD)。
一方、今の三永水源地を流れる下三永川は、軟らかい地層が厚かったので下刻がどんどん進み、峡谷となりました。その峡谷に三永水源地の堰堤(えんてい)を作ったのです。また、三永水源地ができる前の湖底は、すり鉢状の広い盆地でした。ここは、軟らかい地層が厚く溜まっていたので、下三永川が侵食しやすかったから盆地ができたのです。
水源地をここに作った地形的な理由として、すり鉢状の広い盆地と、その下流に狭い峡谷があったことがあげられます。峡谷に堰堤をつくることで、大量の水を効率よくためられることができたのです。
「呉水」を探そう
さて、再び観音橋に戻ります。御薗宇小と導水路の間の道を進むと、住宅地と道の間に標石が並んでいます。番号が刻まれていて五九八、五九九、 六〇〇と連番になっています(地点⑧)。車道との交点にある五九八番の標石は、番号面と反対の面も見ることができ、「呉水」と刻まれています。「呉水」とは呉市水道局の意味で、この標石は呉市水道局の敷地境界を示しています。この三永水源地は、飲料水不足を補うために呉市によって計画・施工され、昭和18(1943)年に完成しました。下三永川の狭くなったところに堰堤をつくり、水をためています。
昭和初期の地形図(本紙5月2日号参照)には湖底に沈む前の土地利用を見ることができ、谷底に水田が広がっているのがよく分かります。呉市から遠く離れた西条の地に、しかも戦時中物資が不足している中で、水源地を作ることができたのは、海軍の強い後押しがあったはずです。導水路に架かる橋が吾妻子橋(地点⑨)です。橋の欄干に昭和18年1月竣工(しゅんこう)とあり、水源地の完成年と同じです。現在も三永水源地は呉市水道局が管理しています。
緩やかな道を下ります。地点⑩では、「呉水」の標石が数多く並んでいるのを見ることができます。また新長者橋の下流に、大正十三(1924)年と刻まれている橋の親柱が保存されています(地点⑪)。昭和初期の地形図の橋は、この親柱が使われていた橋でした。
地点⑩から地点⑬にかけては、一般の人には気付かないことが隠されています。それは、約幅3㍍の呉市の土地があることです。地点⑫の畦(あぜ)に残る二つの「呉水」の標石が目印で、その間は呉市の土地です。地下には呉まで水を送る水道管がかつて敷設されていたのです。現在、三永水源地の水は呉には送られず、吉川工業団地にある、半導体メモリを生産するマイクロンメモリ株式会社などの工業用水として活用されています。
地点⑭には、排気弁と書かれた金属製の四角蓋(ぶた)がありますが、この文字の上にあるマークは、呉市の市標なのです。まさにこの下に呉市の水道管が敷設されていた証拠です。