東広島をふらっと歩いてみませんか。見方を少し変えるだけで、その地域の地理や歴史を物語るものが見えてきます。散策しながら地域を学ぶ「地歴ウォーク」の世界へようこそ。
執筆/広島大学大学院人間社会科学研究科教授 熊原 康博
八本松駅周辺の地形
今回はJR山陽本線八本松駅周辺を歩きます(図1)。駅周辺は、呉市広へ流れる黒瀬川水系(二瀬川)と、海田へ流れる瀬野川水系の境界(分水界)となっています(図2)。この分水界は谷の中にあり、緩やかな勾配のため気付きにくくなっています。
駅から東側に、赤色のアーチ橋(八本松大橋)が見えます。明治時代に鉄道を敷設する際、山を削って切り通しをつくり、昭和47(1972)年、橋が架けられました。
駅周辺の行政区分は、江戸時代~明治前半は飯田村、明治22(1889)年~昭和31(1956)年は、周辺の村と合併して川上村、昭和31年~昭和49(1974)年は八本松町でした。川上村の由来は、瀬野川と黒瀬川の上流という意味からつけられており、八本松駅はまさに〝川上〟にあたります。
八十八石仏と堀岡熊次郎
駅から西に向かって進むと地点①に、高さ約90㌢㍍の4体の石仏(49~52番)が並んでいます。これは、四国八十八ヶ所霊場巡り(お遍路)に倣って建立された八十八体の石仏の一部です。昭和初期に堀岡熊次郎という人が、八本松駅周辺で石仏の建立を思い立ち、主に川上村の人々の寄付を集めて作ったものです。
石仏には、四国霊場と同じ仏様と巡礼の番号が刻まれています。石仏の側面には寄進した人の名前と居住地が刻まれています。なお、番号の数字と同じ年齢の人が寄進したとされています。石仏の脇には案内板が建てられており、番号と仏様の名前が書かれています。
3度の土石流と石仏の受難
住宅地沿いの道を南に進んでいくと徐々に高度があがり、国道2号バイパスを橋でわたります。
地点②には、43番の石仏がバイパスの側道脇にあります。この石仏は本来この場所にはなく、背後の曾場ヶ城山の谷筋にあったもので、昭和20(1945)年枕崎台風で生じた土石流によって流され、長い間不明でした。ところが、平成11(1999)年台風19号の土石流がきっかけで発見され、現在の位置に安置されたのです。
実は、他の石仏も、枕崎台風、台風19号、そして平成30(2018)年西日本豪雨で土石流の被害を受けています。枕崎台風では43番だけでなく、39、41番の石仏も土石流に巻き込まれ、やはり台風19号がきっかけで見つかり、両石仏は元の位置に安置されました。ところが、西日本豪雨で9、12、41番の石仏が流され、9番は発見されたものの、12、41番はいまだに見つかっていません(現在は身代わりの地蔵が安置されています)。近代以降の土石流の歴史が、石仏の受難からもわかるのです。
瀧の谷馬頭神社と「菖蒲の前」伝説
43番石仏の隣には瀧の谷馬頭神社の祠があり、脇には滝があります(地点③)。滝の近くには、西日本豪雨の際に流れてきた石を用いた水害碑もあります。
この神社は、西条盆地周辺に伝わる「菖蒲(あやめ)の前」伝説の重要な舞台です。この伝説は、菖蒲の前が、源平の争乱で夫の源頼政を失い、都から西条盆地へ逃亡してきたところから始まります。その後、後鳥羽上皇から賀茂郡が与えられ、二神山城を築いたものの、後に平家に追われることになります。菖蒲の前は逃げ延び、最後は出家し、寺で亡くなるまでの一代記です。
地点③は、愛馬の腹を切り裂いてその中に隠れて、平家の追っ手から逃れた所とされています。近くには、その馬を弔った馬頭観音堂もあったとされ、江戸時代には一目観音と呼ばれていました。現在は地点⑫の疱瘡(ほうそう)神社に移されています。
他にも伝説ゆかりの地は、 西条町御薗宇・田口の吾妻子の滝(プレスネット5月2日号参照)、西条町下見の二神山や若宮神社、八本松町原の姫が池や小倉山など西条盆地南部に点在し、曾場ヶ城山の山頂からはこれらの場所を一望できます。
幻の観光地!?
神社から北東にむかい山を下ります。続いて近世の街道である旧山陽道をたどり、八本松中学校脇を通ります。
57番石仏(地点④)は、堀岡熊次郎本人の名が刻まれているので、当時57歳であったのでしょう。熊次郎は、西条町南部の柏原(かしょうばら)出身で、北海道開拓で財をなしたとされます。その財を元手に駅周辺の土地を購入し、桃の木を植えて桃園をつくり、劇場も建てています。劇場の名は一目劇場と呼ばれ、明らかに一目観音を意識した名称です。
私は、熊次郎が「菖蒲の前」伝説をテーマとした観光地化を八本松駅周辺で目指し、その動線として石仏巡りを発案したと考えています。石仏は曾場ヶ城山の山頂まで続いており、観光客に伝説の舞台である西条盆地を眺めてもらう意図だったのではないでしょうか。劇場では「菖蒲の前」伝説を演目にと考えていたのではと、想像は膨らみます。
ただ、熊次郎は昭和6(1931)年に61歳で亡くなっており、彼が目指した企図はわからないままです。
【ご注意】曾場ヶ城山山頂を往復する石仏巡りのルートは険しく、道がない箇所もあります。本格的な装備で登ることをお勧めします。
〈参考文献〉
川上村史刊行会(1950)『広島県川上村史』
近藤五十憲(1998)『八本松八十八石佛再発見物語』
熊原康博・岩佐佳哉編(2023)『東広島地歴ウォーク』